Hồng Lê Thị

自分らしく生きる_ Hãy là chính mình

ĐỌC BÁO TIẾNG NHẬT_ 3 CÁCH THỰC TẾ GIÚP CÂN BẰNG CUỘC SỐNG CÔNG VIỆC

ワークライフバランスを向上させる3つの現実的な方法 3 bước thực hiện giúp cân bằng cuộc sống công việc    Cuộc sống thường sẽ không bằng phẳng, sẽ có những lúc lên lúc xuống, lúc trầm, lúc bổng. Thế nên để giúp cuộc sống được cân bằng thì chúng mình áp dụng 3 cách sau trong bài Read more…


BÀI ĐỌC DÀI N1

BÀI ĐỌC: 本というのは、人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じように、ベストセラーがある。嫌われ者がいるように、誰からも手に取られない本もある。だが、どれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。 それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのも、もちろん大事なことだ。だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。 私の本も、インターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れると、それをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと、自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前、いや、正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前、他人の本をずいぶんけなしたものだ。 ただきわめて心外なのは、ないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば、私はある参考書を出している。その趣旨としていることは、「大学の小論文・試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため、最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから、私はその本の中では、敢えて難しいことは書いていない。ところが、の参考書を酷評する(注)書評がある。そして、その評の中には「この本を読んでも、かろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。 私は、まさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すれば、その本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げて、それが書かれていないからと批判されても、こちらとしては困ってしまう。 そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるとけなし、知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが、読者の務めだと、私は思う。 本について語るからには、あらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。 (樋口裕一『差がつく読書』による) (注)酷評する:ひどく厳しい評価を下す 筆者は、どのような書評が傲慢だと感じているか。  優れている点を決して認めようとしないもの。  自身の判断がすべてであるかのように評価したもの。  自身に知識があるかのように見せかけたもの。  大した理由づけもなく優劣を断定したもの。 ある参考書について、筆者が心外だと感じたのはどのような書評か。  どうにか合格できる程度を目指したのに、それ以上の内容が必要だと評判したもの。  合格に必要な最低限の知識を整理したものなのに、合格は不可能だと批判したもの。  難しい試験でも合格できるように書いたのに、それでも不十分だと批判したもの。  敢えて難しいことは書いていないのに、それでもわかりにくいと批判したもの。 筆者によると、本が良書と言えるのはどのような場合か。  書評で強く批判されない場合。  求める人のレベルや目的にあっている場合。  多くの人が価値を認めている場合。  求める人に本の趣旨が理解しやすい場合。 本を批評する人に対して、筆者が言いたいことは何か。  それぞれの本の存在価値を認めるべきだ。  著者のあらゆる本を読むべきだ。  どのような本にも先入観なしで接するべきだ。  極端に否定的な評価は避けるべきだ。 PHÂN TÍCH BÀI ĐỌC  本というのは、人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じように、ベストセラーがある。嫌われ者がいるように、誰からも手に取られない本もある。だが、どれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。 Sách là thứ cũng giống như với con người. Không thể quyết định ưu Read more…


TIỂU ĐƯỜNG THAI KỲ ĂN GÌ_ NHẬT KÝ LÀM MẸ

tiểu đường thai kỳ

Hồi bầu bạn thứ nhất _tức là bạn Nghé của mình bây giờ đã hơn 4 tuổi, mình bị chuẩn đoán tiểu đường thai kỳ lúc bầu 28 tuần.  Sáng hôm ấy, mình lại còn mới học được món mới là mỳ ý sốt thịt bò. Ôi sao nó ngậy, Read more…


BÀI ĐỌC DÀI N1_ VẬN DỤNG HẾT TẤT CẢ KỸ NĂNG ( TÌM CHỦ NGỮ, PHÂN TÍCH, TỔNG HỢP Ý )

BÀI ĐỌC 以下は、ある芸術家が書いた文章である。 _________________________________________________________________________________ 人間は動物とちがって、知的な活動、その情熱をもっている。おさなくたって、魂の衝動は強いのだ。だから子供は描きたがる。形、色にして確かめる。だが問題は自分のなかにあるものを外に突き出す、投げ出すという行為自体であって、決して出来上りの効果ではない。 だから子供は描きおわってしまったものはふり向きもしない。捨てられたって何とも思わないのだ、(中略)それを大事そうに拾いあげて、「これは面白い。」「坊やは才能がある。これをうまく伸ばせば、将来えらい画家になるかもしれない。」などと、観賞したり評価するのは、いつでも大人で、子供自身は、もしほめられても、そんなものかなと聞いているだけである。だから「子供の絵」というような言い方の、根本に何か間違いがある、と私は思う。描いたものには違いないが、「作品」ではない。その以前の、もっと根源的な何ものかなのである。 「絵」などというから、大人の「絵画作品」と混同して考えてしまう。そこにズレがおこる。大人のは見せる芸であり、商品である。はじめから観賞すること、してもらうことを目的とし、結果を予測しながら作り上げたものなのだ。いわゆる「絵描きさん」となると、描いている瞬間に、結果がわかっている。こうやれば、こうなる。習練(注1)と経験によって、色やタッチ(注2)の効果が計算できるし、生命の衝動、情熱、無目的な行動よりも、結果の方に神経が働いてしまう。出来ばえに、逆にひきずり回されているのだ。 しかも、大向こう(注3)の気配まですでに見すかして、……こんな趣向は喜ばれるだろう、これはちょっとやりすぎかな、などと意識・無意識に、そんな手応えにあわせながら仕事をすすめている。評判をとり、買手がついてくれなければ食ってゆけないし、社会が許さない。生活はきびしいのだ。無償の行為というわけにはいかない。明らかに「作品」つまり「商品」を作っているのである。大人の作品だって、本質的には生命力こそ肝要なのだ。自分の存在を純粋に外に投げ出す、突き出すアクションの質、強さによって、猛烈な魅力になる。私自身は、少なくともそのつもりである。よく、あなたの絵はわけがわからないと言われるが、「絵」でございます、というようなものは作りたくない。それ以前、そして以後のものをひたすらつきつける。――絵ではなく、芸術。そして出来るかぎり他の評価を無視したいと思っている。 (岡本太郎『美しく怒れ』による) (注1)習練:練習 (注2)タッチ:ここでは、筆の使い方 (注3)大向こう:ここでは、観賞する人々 捨てられたって何とも思わないのはなぜか。  最後まで描けたことに満足しているから。  いつでも描きたいものが描けるから。  描きたいものが描けて納得したから。  描きたいという欲求が満たされたから。 子供の描いたものが「作品」ではないのはなぜか。  観賞されることを目的として描かれていないから。  評価に値する出来上りになっていないから  描いた本人が価値を認めていないから。  大人ほどの表現力や情熱をもって描かれていないから。 「絵描きさん」について、筆者はどのように述べているか。  買手の要望どおりに描いている。  かんぺきな出来ばえを求めている。  買ってもらえるように描いている。  いつも同じような描き方をしている。 筆者は芸術をどのようにとらえているか。  他人には理解できないようなもの。  情熱に突き動かされて作るもの。  人間の生命力を巧みに表現するもの。 人を引きつける魅力的なもの。


DẠY NGHÉ KINH DOANH

Note lại đây để dành ý tưởng dạy nghé kinh doanh khi vào cấp 1 🙂 Rồi sẽ đến lúc cần dùng đến. https://note.mu/sato_nezi/n/n7b911aadd691#HeY60


BÀI ĐỌC DÀI _ĐỀ THI N1 2014

Bài này hơi khó một chút, vì hơi khó đọc ^^  _______________ 多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。「何のために」生活するのと問われたら、どう答えるだろう。こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといった愚(注1)にもつかない教育になる。(中略)生活の必要のない年齢には、生活に必要のないことを学ぶ必要があるのだ。それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのだ。生活に必要のないことは、人生に必要なことだ。すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。 「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのもの、これを問う問いである。「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。 この問いの不思議に気がつけば、どの教科も、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。国語においては言葉、算数においては数と図形、理科においては物質と生命、社会においては人倫(注2)、どれもこの存在と宇宙の不思議を知ろうとするものだと知るはずだ。人間精神の普遍的な営みとして、自分と無縁なものはひとつもない。どれも自分の人生の役に立つ学びだと知るはずなのだ。 (池田晶子『人間自身――考えることに終わりなく』による) (注1)愚にもつかない:ここでは、ばかばかしい (注2)人倫:人として守るべき道 多くの大人について、筆者はどのように考えているか。 1.生活と人生の違いを教えている。 2. 生活と人生の違いがわかっていない。 生活と人生の両方を教えている。 3. 生活も人生もわかっていない。 筆者によると、子供にとって必要なのはどのような時間か。 1. 働くことの意義を考える。 2. 人が生きている意味を考える。 3. 人生と生活の違いを学ぶ。 4. 生活に必要なことを学ぶ。 「人生とは何か」と問うことによって、筆者は何がわかると考えているか。 1すべての学びが自分にとって有益だということ。 2. 人間が存在すること自体が不思議であるということ。 3. 自分がなぜ存在しているかということ。 4. 教科で扱われている事柄は生活に必要だということ。 Phân tích bài đọc: 多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。 Rất nhiều người Read more…


PHƯƠNG PHÁP LUYỆN NGHE TIẾNG NHẬT

“Làm gì để nghe tốt” HAY “Phương pháp luyện nghe tiếng nhật” có lẽ là chủ đề vô cùng hấp dẫn với các bạn nhỉ ^^ Bản thân mình cũng không phải là siêu sao trong lĩnh vực này đâu, nhưng chắc cũng có đủ chút vốn liếng gọi là Read more…


BÀI ĐỌC N1_ ĐỀ THI NĂM 2014

不安は、正体がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。人間だれでも、自分に都合の悪いこと、恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから、無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。そうして結局、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう。逆に自分の何がどのように不安なのか、不安に思う必要があるのかどうかを把握すれば、それだけで不安は減る。不安の正体が明確になって、これは何かしなくてはまずいと認識されれば、それは「危機感」になる。危機感は不安と違う。危機感をもてば、行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて、行動計画をたてようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。 問題の鍵となる不安は何なのかということだ。様々な不安の中から、それを特定して意識する。その不安に、思いきり光を当てて自分で正体を見極められれば、次にどうすればいいかの対策も講じられる。 (中略) 不安には、しばらく保留にしておいても大丈夫な不安もある。それがわかった瞬間、不安は、また少し減る。 こうして、自分が何をやらなければいけないかが見えてくる。やる気が出てくる。動く気になる。不安の解決策を考えながら、夢が膨らんでくることもある。 (佐々木直彦『「仕事も人生もうまくいく人」の考え方』による) いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまうとあるが、なぜか。  不安の原因がいくつもあって対処できないから。  不安が一人では解決できないほど大きいから。  不安について考えることを避けてしまうから。  不安に向き合うと不安はさらに膨らんでいくから。 筆者によると、危機感をもつとどうなるか。  次の行動に移れる。  不安の原因が把握できる。  行動に自信がもてる。  不安の正体を突き止めたくなる。 不安について、筆者はどのように考えているか。  不安の原因が何かわかるまでしばらく保留にしておくといい。  解決しやすい不安から順々に対応するといい。  保留にするべきではない不安をまず特定するといい。  不安を感じたときはすぐに解決策を考えて実行するといい。 Phân tích bài đọc: 不安は、正体がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。人間だれでも、自分に都合の悪いこと、恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから、無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。そうして結局、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう。逆に自分の何がどのように不安なのか、不安に思う必要があるのかどうかを把握すれば、それだけで不安は減る。不安の正体が明確になって、これは何かしなくてはまずいと認識されれば、それは「危機感」になる。危機感は不安と違う。危機感をもてば、行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて、行動計画をたてようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。 Bất an ngày càng phình ra đến mức không thể nắm bắt được. Rồi kéo dài mãi. Con người ai cũng vậy, thường không Read more…


ĐỌC HIỂU N1_ BÀI ĐỌC NGẮN

Bài này lúc đọc thấy hơi loằng ngoằng, nhưng nhìn đáp án thì mình có thể đoán được ngay.  Thậm chí không cần phải hiểu hết ý, vẫn có thể chọn được đáp án! Cả nhà có thấy thế không ? Bài đọc: 私が35歳になったころ、「このごろは、少年時代に経験したような、ものすごい雷雨が無くなった」と口にしたことがあります。ところが、60歳ぐらいになったとき、35歳ぐらいの人から同じ言葉を聞いたのです。つまり、私が強い雷雨は無くなったと感じたとき、その人はまだ少年時代で、強い雷雨を経験していたことになります。この場合は、無くなったのは、少年時代特有の自然から受ける鮮烈な印象、驚き、恐れでしょう。 (倉嶋厚『日和見の事典――倉嶋厚の人文気象学ノート』による) Câu hỏi: 筆者の考えに合うのはどれか。 1. 同じ雷雨でも、今の人は昔の人と同じような印象は受けない。 Read more…


ĐỌC HIỂU NGẮN N1

BÀI ĐỌC: 以下は、諦めについて書かれた文章である。 人が自分の能力以上のことに憧れ、それがどうしても出来ないというのに、なお執着を持っているとしたら、登れない壁の下で徒らじたばたしているようなもので、気の毒でもありますが、滑稽でもあります。この場合は諦めが必要です、ただそれは、その次の、自分の能力に合った憧れなり、道なりを求めるためにのみ必要であって、諦めの中に憩ってしまうことは少し見当が外れていることになるかもしれません。 (串田孫一『考える葦』による) 筆者の考えに合うのはどれか。  前へ進みたいなら、無理なことに執着せずに諦めることも必要だ。  前へ進めない理由がわからないなら、諦めることが必要だ。  能力に合った憧れや道を求めるなら、何事も諦めてはいけない。  能力を超えていると思っても、すぐに諦めてしまっては前へ進めない。   Phân tích bài đọc:    以下は、諦めについて書かれた文章である。 Dưới đây là đoạn văn viết về sự từ bỏ  人が自分の能力以上のことに憧れ、それがどうしても出来ないというのに、なお執着を持っているとしたら、登れない壁の下で徒らじたばたしているようなもので、気の毒でもありますが、滑稽でもあります。この場合は諦めが必要です、ただそれは、その次の、自分の能力に合った憧れなり、道なりを求めるためにのみ必要であって、諦めの中に憩ってしまうことは少し見当が外れていることになるかもしれません。 Con người cho dù có ngưỡng mộ những thứ vượt quá năng lực của bản thân, và dù có làm cách nào Read more…