CÂU LẠC BỘ ĐỌC

Câu lạc bộ đọc là dự án của mình trong năm 2019, với mong muốn cùng các bạn đọc các bài báo về lối sống, cách suy nghĩ của người Nhật mà bản thân mình đang theo dõi.Ngoài ra, câu lạc bộ đọc cũng hướng tới những bạn đang chuẩn bị cho kỳ thi N1 _ đọc một số các bài đọc hiểu.Tất cả các bài viết hiện tại đang được bảo vệ nên chúng mình sẽ không thấy hiện ở đây.Tuy nhiên nếu các bạn muốn cùng tham gia với mình thì có thể Inb để chúng ta có thể nói chuyện và bàn luận thêm nhé ^^Xin lưu ý, mình không phải là một chuyên gia về đọc hiểu, hay dịch giả.Nhưng sẽ là người bạn tin cậy của bạn trong quá trình đọc thôi ha ^^Chúc chúng mình sẽ tạo được thói quen đọc mỗi ngày nhé.Cảm ơn và hẹn gặp lại các bạn!

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    BÀI ĐỌC VỪA KHÓ N1

    BÀI ĐỌC:  書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読(注1)などは強制的、修養(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド(注3)であったことは確かである。しかし、①私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メディアなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。 活字以外の表現手段が大きな影響力をもつようになったことを②「時代の流れ」と呼ぶのはいいが、文化の変容があまりにも急激なこと、あるいは一つの有力な文化が別のものに置き換えられることには予測しがたい弊害を伴う。活字にもいろいろあるが、書物に特有の楽しみを与えてくれる本、思索の喜びをもたらしてくれる本、人生の支えになるような本が相対的に少なくなったのは、1980年代の半ばごろからで、書店の棚には情報的な本や、映像文化の書籍化をねらった寿命の短いものばかりが目立つようになった。家庭からはスペースの狭さをいいわけに、本棚が姿を消してしまった。 ちょうどそのころから映像文化や活字文化の本質を考えるメディア論が盛んになったが、いまから思えば従来の活字文化が衰弱した場合にどうなるかという洞察力において、いささか欠けるところがなかっただろうか。 (紀田順一郎『読書三到――新時代の「読む・引く・考える」』による) (注1)素読:ここでは、意味を考えずに、声を出して読むこと (注2)修養:学問を修め人格を高めること (注3)メソッド:方法 ①私たちの世代とあるが、筆者の世代にとっての読書はどのようなものであったか。  人間の成長に不可欠だと自信をもって言えなくなってきていた。  社会生活を営む上で必須であると信じられていた。  映像や音響メディアと同列に扱われるようになってきていた。  近年の社会経済のあり方には合わないものとされていた。 ②「時代の流れ」は、書物にどのような変化をもたらしたか。  楽しみや喜びが与えられ心の支えになるような本が増えた。  映像化することを目的として書かれた本が増えた。  情報を提供する本やすぐに読まれなくなる本が増えた。  教育的に望ましくない本や悪影響を与えるような本が増えた。 1980年代半ば以降のメディア論について、筆者はどのように述べているか。  活字文化と映像文化の本質を明らかにしていなかった。  活字文化が衰弱していく時期を予測していなかった。  活字文化の衰退後の状況を見通していなかった。  活字文化を急激に変容させた要因を把握していなかった。 PHÂN TÍCH BÀI ĐỌC: 書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読(注1)などは強制的、修養(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド(注3)であったことは確かである。しかし、①私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メディアなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。  Phải chăng xã hội ngày xưa theo trải…

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    BÀI ĐỌC NGẮN N1_ TỔNG HỢP Ý

    BÀI ĐỌC:  これから起こる社会の変化を読みとるのは難しい。しかし、その変化を見極めて将来に対する指針をもたなければ、激しく変化する社会のなかで自分を見失ってしまう。歴史学は、この時代の変化を長い時間のなかにおいて見据え、社会め進む方向を教えてくれる学問である。けっして、過ぎ去った過去を記憶したり、なぞったりする学問ではない。ゆるやかに流れる時代にあっても激動する時代にあっても、歴史学は私たちの行く(注1)手を照らす一条(注2)の光なのだと思う。 (高山博『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーヘ』による) (注1)行く手:行く先 (注2)一条:一筋 歴史学について、筆者はどのように考えているか。  社会の変化を時間の流れのなかに位置づけて、進む道を示すものである。  現代社会や人々の活動の変化を、過去の時代と比較するものである。  社会の流れを読みとり、将来のために記録しておくものである。  社会の変化や流れを振り返り、これまでの出来事を検証するものである。 PHÂN TÍCH BÀI ĐỌC これから起こる社会の変化を読みとるのは難しい。しかし、その変化を見極めて将来に対する指針をもたなければ、激しく変化する社会のなかで自分を見失ってしまう。歴史学は、この時代の変化を長い時間のなかにおいて見据え、社会め進む方向を教えてくれる学問である。けっして、過ぎ去った過去を記憶したり、なぞったりする学問ではない。ゆるやかに流れる時代にあっても激動する時代にあっても、歴史学は私たちの行く(注1)手を照らす一条(注2)の光なのだと思う。 Khó mà phỏng đoán (読み取る=推し量る )được sự biến đổi của xã hội xảy ra trong tương lai. Tuy nhiên, nếu như…

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    BÀI ĐỌC NGẮN N1

    現代、恋愛は、通常は部分でしか他者とかかわり合いをもたない個人にとって、例外的に全人格と全人格とのぶつかりあいを経験する、特別な関係なのであろうか。それとも、「全人格的」というのは幻想で、恋愛もまた互いに自己のある一面を見せあう、部分的関係の一例か。これはもちろん、そのどちらなのか、という問題ではなく、個々の恋愛はこの振幅のどこかにあるということになるだろう。だが、趨勢(注)としては後者の方へと振れてきているのではないだろうか。 (草柳千早『AERAMooK』1999年7月10日号による) (注)趨勢:傾向 筆者は、現代の恋愛はどうなってきていると考えているか。  全人格でぶつかりあう関係が一般的になってきた。  お互いに自己の一部しか見せあわないようになってきている。  自己の一部しか見せあわない関係は敬遠されてきている。  全人格でぶつかりあう関係は現実には存在しなくなった。 PHÂN TÍCH BÀI ĐỌC: 現代、恋愛は、通常は部分でしか他者とかかわり合いをもたない個人にとって、例外的に全人格と全人格とのぶつかりあいを経験する、特別な関係なのであろうか。それとも、「全人格的」というのは幻想で、恋愛もまた互いに自己のある一面を見せあう、部分的関係の一例か。これはもちろん、そのどちらなのか、という問題ではなく、個々の恋愛はこの振幅のどこかにあるということになるだろう。だが、趨勢(注)としては後者の方へと振れてきているのではないだろうか。 Phải chăng  tình yêu hiện đại  mối quan hệ đặc biệt  ngoại lệ trải nghiệm sự va chạm  giữa toàn bộ nhân cách, còn…

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    BÀI ĐỌC DÀI_KHÁ PHÂN VÂN KHI CHỌN ĐÁP ÁN

    BÀI ĐỌC: 目を見て話す。 この秘訣を教えてくれたのは、まだ小さかった頃の娘でした。 「外から帰ったら、手を洗いなさい」 「ごちそうさまを言いなさい」 (中略) どんなに声に威厳を込めたつもりでも、新聞を読みながらだと、まるでだめ。 「お父さんはこう言っているけど、手を洗うっていうのは、別に大事なことじゃないんだな」 きちんと目を見ていないと、子どもはたちまちそう判断してしまいます。よそ見をしながら口やかましく繰り返しても、①「ごちそうさま」を言うようにはならないのです。 目を見て話すことは、わかり合い、メッセージを伝え、コミュニケーションをよくする秘訣。これはこどもに限ったことではありません。仕事でも家庭でも、すべての場において有効です。 大人になると、ぎくしゃくすることは頻繁にあります。 環境も価値観も考え方も違う人たちの集まりである以上、意見が食い違ったり、誤解が生じてトラブルになることは珍しくありません。 「じっくり話し合えば、ちゃんとわかり合える」というのは、僕の見たところ、残念ながら理想論。どちらかが妥協したり、お互いがちょっと意見を曲げたりして合わせているだけで、100パーセントの解決などありえないのが現実です。 あげくの果てに(注)「話しても無駄だし、また同じことの繰り返しか」とうんざりし、コミュニケーションをあきらめてしまう――ほうっておくとこんな事態に陥ることも、珍しくはありません。 それでもコミュニケーションをあきらめたくないと思ったとき、僕はこの秘訣を思い出しました。いくら意見が食い違っても、どんなにトラブルが燃え上がっても、必ず相手の目を見て話をするということを。 考え方がまるで合わず、最後まで言い分は平行線をたどるような議論でも、相手の目を見て話し続ければ、不思議なことに相手に尊敬の念が湧いてきます。 たとえ「この人の言っていることは、間違っている!」と思っていても、相手の目を見て聞いていれば、「その人の人間性」に対しては、別の気持ちを抱くようになります。意見は認められなくても、人としては認められるということです。 言い合っても目と目を見つめ合っていれば、不思議な一体感すら生まれます。結果として解決には到らなくても、悪い方向には向かわない。これだけは、何度も試した僕の保証つきです。 疲れていたり、へこんでいたりすると、人は目を見て話すことができません。そして下を向いていればいるほど、良くない事態が悪化します。 さあ、洗い物をしながら大事な話をするのはやめましょう。パソコンから顔を上げて、まっすぐ目を見て話しましょう。 理解できない相手でも、受け入れられない相手でも、この秘訣を知っていれば、②何か別の関係が生まれるはずです。 (松浦弥太郎『あたらしいあたりまえ。一暮らしのなかの工夫と発見ノート2』による) (注)あげくの果てに:結局 子どもは、①「ごちそうさま」を言うようにはならないとあるが、なぜか。  親が手本を見せないとわからないから  その言葉を言うことが習慣になっていないから  親がやかましく言うとかえって逆効果になるから  その言葉が必要だという親の気持ちが伝わらないから 大人同士の人間関係について、筆者はどのように述べているか。  コミュニケーションをあきらめると、トラブルになることも珍しくない。  話し合いを重ねても、お互いを理解できないことがある。  お互いを理解するためには、最後まで議論することが必要だ。  話し合いの場で誤解をなくすには、お互いが妥協しなければならない。 ②何か別の関係が生まれるとあるが、どういうことか。  相手の価値観を理解できるようになる。  相手の人間性を認めるようになる。…

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    ĐỀ THI ĐỌC NĂM 12/2012 CÓ VẺ KHÓ Ạ ^^

    BÀI ĐỌC:  音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、またそうであるがゆえに価値をもつものとされてきたと言った方が良いだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし(注1)忘れるためのオアシスのような場所としての意義が叫ばれるようになったりもするのだが、いずれにしてもその音楽を研究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い(注2)世の中で、そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①何とも複雑な心境になるのである。 だが、コペルニクス的転回を遂げた(注3)と言っても過言ではない近年の文化研究の進展の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想である、というより、そのような幻想自体、すでに一定の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びた(注4)ものにほかならなかったということが明らかにされてきた。今や、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離された純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙(注5)に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は誰もいないだろう。 音楽研究に関わる人々の意識も変わり、研究の内実も大きく変わってきているにもかかわらず、むしろ、音楽研究の世界の外側にいる人の方が、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは②皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論をしている人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に戻ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって編んだ領域横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮世離れした(注6)古めかしい論文が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく乖離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究者の目に映る音楽の世界もずいぶんと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、そのおもしろさを十分に伝え切れていない、そんな気がするのである。 (渡辺裕『音楽は社会を映す一考える耳「再論」』による) (注1)しばし:しばらく (注2)世知辛い:暮らしにくい (注3)コペルニクス的転回を遂げる:考え方がこれまでと根本的に変わる (注4)刻印を帯びる:ここでは、影響を受ける (注5)宙:空中 (注6)浮世離れした:現実と懸け離れた ①何とも複雑な心境になるとあるが、なぜか。  芸術や文化が社会生活とは懸け離れていると思われているから  芸術や文化の研究が現実生活に役立たないと思われているから  芸術や文化の価値が現実生活で高く評価されないから  芸術や文化と社会生活との関係が希薄になっていくから 筆者によると、近年の音楽研究者は音楽をどのようにとらえているか。  現実生活と乖離した純粋なものである。  他の芸術や文化と同等には論じられない。  政治や社会に深く関わっている。  社会の状況が悪化した時に最も必要とされる。 ②皮肉なことだとあるが、何か皮肉なのか。  音楽研究者以外の人の方が、音楽をよくわかっていること  音楽研究者以外の人の方が、音楽を特別なものとしたがっていること  音楽研究者以外の人の方が、音楽について最先端の議論をしたがっていること  音楽研究者以外の人の方が、音楽を純粋に楽しんでいること 現在の音楽研究者のあり方について、筆者はどのように述べているか。  音楽のもつ普遍的な価値を社会によりわかりやすく伝えることが課題だ。  音楽研究の成果をこれまで以上に発信することが求められている。  音楽に対する意識を変えて新たな研究に取り組むべきだ。  最先端の音楽研究について議論していくことが重要である。 PHÂN TÍCH BÀI ĐỌC:  音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、またそうであるがゆえに価値をもつものとされてきたと言った方が良いだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。…