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BÀI ĐỌC DÀI N1_ VẬN DỤNG HẾT TẤT CẢ KỸ NĂNG ( TÌM CHỦ NGỮ, PHÂN TÍCH, TỔNG HỢP Ý )

BÀI ĐỌC 以下は、ある芸術家が書いた文章である。 _________________________________________________________________________________ 人間は動物とちがって、知的な活動、その情熱をもっている。おさなくたって、魂の衝動は強いのだ。だから子供は描きたがる。形、色にして確かめる。だが問題は自分のなかにあるものを外に突き出す、投げ出すという行為自体であって、決して出来上りの効果ではない。 だから子供は描きおわってしまったものはふり向きもしない。捨てられたって何とも思わないのだ、(中略)それを大事そうに拾いあげて、「これは面白い。」「坊やは才能がある。これをうまく伸ばせば、将来えらい画家になるかもしれない。」などと、観賞したり評価するのは、いつでも大人で、子供自身は、もしほめられても、そんなものかなと聞いているだけである。だから「子供の絵」というような言い方の、根本に何か間違いがある、と私は思う。描いたものには違いないが、「作品」ではない。その以前の、もっと根源的な何ものかなのである。 「絵」などというから、大人の「絵画作品」と混同して考えてしまう。そこにズレがおこる。大人のは見せる芸であり、商品である。はじめから観賞すること、してもらうことを目的とし、結果を予測しながら作り上げたものなのだ。いわゆる「絵描きさん」となると、描いている瞬間に、結果がわかっている。こうやれば、こうなる。習練(注1)と経験によって、色やタッチ(注2)の効果が計算できるし、生命の衝動、情熱、無目的な行動よりも、結果の方に神経が働いてしまう。出来ばえに、逆にひきずり回されているのだ。 しかも、大向こう(注3)の気配まですでに見すかして、……こんな趣向は喜ばれるだろう、これはちょっとやりすぎかな、などと意識・無意識に、そんな手応えにあわせながら仕事をすすめている。評判をとり、買手がついてくれなければ食ってゆけないし、社会が許さない。生活はきびしいのだ。無償の行為というわけにはいかない。明らかに「作品」つまり「商品」を作っているのである。大人の作品だって、本質的には生命力こそ肝要なのだ。自分の存在を純粋に外に投げ出す、突き出すアクションの質、強さによって、猛烈な魅力になる。私自身は、少なくともそのつもりである。よく、あなたの絵はわけがわからないと言われるが、「絵」でございます、というようなものは作りたくない。それ以前、そして以後のものをひたすらつきつける。――絵ではなく、芸術。そして出来るかぎり他の評価を無視したいと思っている。 (岡本太郎『美しく怒れ』による) (注1)習練:練習…